H31.3.16 〜運〜

 

 

 

私は「運」という言葉が嫌いだ。

 

 

 

私の叔父はそれなりに名の知れた作家なのだが、その叔父に会うたびに言われる言葉がある。

 

 

「ナオト(偽名)は運が本当にいい」

 

 

 

私はこれを聞くようになってから「運」という言葉が嫌いになった。

 

 

この言葉を叔父が口にし始めたのは、私が中学校に入る前のことだっただろうか。

 

 

私は中学受検に合格し、地元から離れた場所にある公立の中学校に通うことになった。

 

受検に合格したことで私以外の人たちは「ナオトは中学受験に成功した」と思っていたようだが、私は成功したとは今だに思っていない。

 

私は第1、第2志望の私立の中学に落ち、唯一合格したのが公立の中学校だった。

 

私がこの受験に成功したと思っていないのは、第1志望に落ちたからでは決してない。

 

仮に第2志望の中学に合格し、その学校に通っていれば、私は受験に成功したと言っていたと思う。

 

では何故私が成功したと思っていないのか

 

それは受験の方式が全くもって違ったから。

 

 

私が第1第2に志望していた私立の中学入試は、国語算数理科社会の4科目のテストを受ける一般的な「受験」だったのに対し、私が合格した公立校の入試は論理思考能力を測る適性検査と作文によって合格者を選定する「受検」だった。

 

当時、私立中学対策一本で勉強をしていた私にはその公立の中学など眼中になかったため、「受検」の対策は全くしていなかった。

 

それ以前に、その学校自体が開校して1年目の学校だったために過去問も一年分しかなく、対策のしようがなかった。

 

では何故そんな学校の試験に合格したのか?

 

それは公立校受検の前日に私が通っていた塾で行われた受検対策講習でのこと。

 

その講習は、私が通っていた塾の先生たちが作った予想問題を解くというものだったのだが、そこで出題された予想問題とほとんど同じものが翌日の受検本番の問題で出題されたのだ。

 

 

もちろん私はその問題を落とすことなく解き、作文も当時はそれなりに得意だったのでササッと書き上げ、合格を手にした。

 

数日後、合格したこと、そして塾でやった問題がそのまま試験に出たことをその叔父に伝えると、その日から私には「運がいい子」というイメージが定着してしまった。

 

 

それ以来、私が何かに成功すれば

 

「運があってよかったな」

 

と言われ、逆にうまくいかなかった時には

 

「今回は運がなかったな」

 

と言われるようになった。

 

これを言うのが叔父だけならまだ良かったのだが、叔母はもちろん父親にまで

「ナオトは運がいい」

と言われるようになり、しまいには

 

「運だけでやってきた」

 

と言われたことまであった。

 

私は当時、確かに同じ問題が出たことに関しては運が良かったとは思っていたが、だからといってその問題だけ解けたところで他の問題で点を取れていなければ合格することはなかったわけで、その合格は自分の実力で他の問題が解けたから手に入れることができたものだと思っていた。

 

そんな思いとは裏腹に、親戚内で「運がいい子キャラ」がどんどん広がっていくのを見て、私はどんなに頑張ったところで、努力したところで、この人たちは結局

「運」

という一文字で片付けてしまうんだなと感じ、なんとも表現し難いモヤモヤした感情になったことを今でも覚えている。

 

 

「運」だけで生きてきた人がもしいるのであれば連絡ください。